死ななくてよかった

  • M. T.

33歳

私は33歳の時に離婚し、2人の子供と生活する事になりました。

私は中卒で手に職がなく、高収入を得るには水商売だと考え、向いていないとは思いましたが、子供の将来の事もあり、昼夜働き貯金をしていました。

2年ほどして、私と同じ境遇のAさんが入店してきました。

昼夜働いていたので、店で顔を合わせるだけで付合いはありませんでしたが、Aさんが入院した事を聞いて見舞いに行った時、「人に雇われているより、店を共同経営しないか」と誘われました。

Aさんの事をよく知らないまま、開店準備を進めました。

私の貯金200万円と、銀行の借入れ100万円と、母子福祉資金の借入れ200万円を開店資金にしました。

Aさんの事情で、全ての名義が私になり、お金の管理を私がする事になりました。

店は順調で、銀行の借入れを半年で完済した事で信用がついたのか、銀行から「融資します」とか「良い物件があるので買わないか」とかの話もありましたが、断っていました。

お店を始めてみたけれど

3年目ごろから売上げが落ちて貯金で補うようになり、4年目には、経費やAさんの給料を払うと、私の給料が満額取れなくなってきました。

当時、母子福祉資金の200万円の借入れが毎月2万4,000円の返済として残りましたが、勤めに行って返せると思い、「店を閉めたい」とAさんに伝えました。

Aさんは銀行からの融資の勧誘の事を知っており、「借入れをして店を続けてほしい」と泣きついてきました。

「借入れをしても焼け石に水だ」と説明しても引下がってくれず、Aさんに同情して銀行から200万円借入れました。

お客さんの会社の接待費が減らされたり、転勤者が多かったりした事もあり、経営状況は悪化、借入金は1年でなくなり、その後は自分の給料は持っていた5枚のカードを利用し、借金が150万円に増えたとたん、Aさんは店を辞めました。

この時には勤めに行って返済できる金額でなく、ひとりで店を続けましたが、悪化の一途をたどり、3年後には、娘名義のカードを含め、500万円の借金になっていました。

自己破産という言葉は知っていたので、知識のありそうな年配の会社経営者の方に相談したところ、「自己破産は人間として生きられない、家族にも迷惑をかける」などと言われました。

どうする事もできない、と思い悩んでいたところ、店に来た市会議員さんが「どんな事でも相談して下さい」と名刺を下さいました。

後日、藁(わら)にもすがる思いで相談に行くと、「高松市の中小企業資金の申込みをすれば、優先的に融資できるようにします」と約束して下さいました。

私は書類をいただいて帰り、2人の保証人をつけ、銀行を通じて書類を提出しました。

それから2ヶ月たっても連絡はありませんでした。

正月明けの1月4日、電話をして係の人を呼ぶと、私の担当の方と違う声でした。用件を言うと、しばらくして「担当者が転勤して書類がそのままになっている」と言われ、いいようのない感覚に陥りました。

電話を切ったあと、色々な事が頭の中を駆け巡り、情けない、悔しい思いで頭がおかしくなりそうでした。

融資まで2〜3ヶ月かかるのに、それまで借入れをしなければやっていけない、借入れをすればまた同じ事の繰返しになる、もうあの何年かの思いはしたくない、と思いました。

貯金通帳を見ていると、生命保険の引落しに目が留まりました。

死のうと決めて

解約しても何の足しにもならないけれど、死ねば保険金で誰にも迷惑をかけずにすむ、と思い、自殺を決意しました。

死ぬ事は逃げる事、一番卑怯な事、と思いましたが、ほかに何も考えられなくなり、1月31日に死ぬ事を決め、それまで遺書を書き、色々整理をしました。

死のうと決めてからは、全ての事から逃れられたような気がして、気持ちが楽になりました。

どのようにして死のうか考えている時も、怖いという思いはなく、家族が見て驚かないほうがいいと思いました。

知っている人が液体の除草剤で亡くなった時、食道に穴が開き、亡くなるまで苦しみ、その間家族も苦しんでいたのを見たので、「胃に直接とどくにはオブラートを使えばいい」と、小さじ1杯ほどの粉末の除草剤をオブラートに包み、25袋用意しました。

その時、娘は結婚して近くに住んでいました。手前みそですが、しっかり者で何の気がかりもない子です。

しかし息子のほうは、中学の時から登校拒否やら非行やらで親の私に心配ばかりかけ、高校へも行かず職を転々とし、19歳の当時は的屋のアルバイトなどしながら同居していました。

その息子をひとり置去りにするのは気がとがめましたが、頼る者がいなくなれば自立するだろう、と心を鬼にしました。

1月30日、最後の仕事をし、ドアに「勝手ながら、閉店させて頂きます」の貼紙をして帰りました。

死のうと決めた1月31日は、6年間一緒にテニスをした仲間と最後の試合をし、心の中で「さようなら、ありがとう」と言って別れました。

夜は息子と最後の食事をしよう、と思っていたのに、オートバイ事故で亡くなった友達のお通夜に出かけたので、食事をするのをやめました。

遅くなって帰り、2階へ上がったので、眠気を早めるために、ストレートでウィスキーをコップ2杯飲み、布団を北枕に敷き、着物を左前に着て、足を紐でくくり、用意しておいた除草剤を飲み、胸の上で指を組んで、「あっちゃん、ごめんね」と息子への詫びをひとりつぶやいて眠りました。

2月1日、お昼過ぎ葬儀に出かける息子が、「お母さん、行ってくるな」と言う声に目が覚め、生きている事に戸惑い、情けなくなりました。

顔の半分が痛く、鏡を見ると、唇は腫れ、鼻から顎まではこげ茶色で、ひどい火傷のような炎症、舌は真っ白で、口の中はただれ、自分でも気持ちが悪くなり、いっそう情けなくなりました。

とにかく死ななければと、あわてました。

急性アルコール中毒で死ねるかもしれないと思い、ボトル1本を一気飲みし、息子に体調が悪いので店を休むから、弁当でも買ってと、書置きをし布団に入りました。

2月2日の夕方、目が覚めました。

死ぬ事しか頭になく、手首を切ってと考えましたが、「死ぬまでに息子が気づいて怖い思いをさせる事になる、いつまでも家族と顔を合わさないようにできない、こんな顔で外にも出られない、もう餓死するしかない」と思い、息子が寝た時間に家を出て車を走らせました。

冬のアスレチックは人が来ないだろう、と思い、公渕公園へ行きました。外灯のないまっくらな山も、私には何も感じる事はありませんでしたが、自分でも吐き気がするほど口の中の臭いがひどく、炎症で顔がつっぱった事だけ感じました。

2月3日、口の臭いを取るために、テニスボールを入れる缶に小川の水を入れ、缶の中へ口を入れてすすぐと、ただれた皮がオブラートを溶かしたようになって出て、臭いは少し消えました。

体力を消耗させるために、約5kmのアスレチックコースを1日3回まわりましたが、体に異常は感じませんでした。

2月4日、車のエンジン音で目が覚めました。

顔を見て変に思われると思い、ジャンパーのファスナーを上まで上げ、人に会わないようにその日もアスレチックコースを3回まわりました。

焼けた皮膚がめくれかけていたので少しずつはがしていましたが、死のうとしているのに、こんな事しなくてもいいのにと、思いました。

体に異常がないか、ジャンプをしたり、歩いてみたりしましたが、空腹感は全くなく、頭はさえており、異常のない事に悩みました。

この夜は冷え込みがひどかったので、凍死するかもしれないと思い、車の窓を少し開けて横になりなした。

2月5日、やはり生きていました。

口をすすぐ水をくみに行くため、車から出ると足がふらつき、宙に浮いているようで、歩くにも困難を覚えるようになった事に、少しうれしくなりました。

体の異変の事ばかり考え、子供の事すら考えてなかったのに、ふと今日は何日だろうと思った時、娘名義のカードの返済の事を思い出しました。

助けられて

お金は用意しておいたのですが、入金はしていませんでした。7日引落しなので、歩けるうちに伝えておかないと取立てで迷惑をかける、と思い、連絡をするためにアスレチックコースの中にある電話ボックスへ行きました。

坂道は這上がり、下りは滑って下りるありさまで、やっとの思いでたどり着き、電話をしましたが、娘は留守でした。

この日は、風がなく天気が良かったので、芝生に横になり時間をつぶしていましたが、人が来たので、変に思われると思い、息子に伝えてもらおうと思い、持っていた30円を入れて電話しました。

息子の声が聞こえましたが、何日もしゃべっていない上に息子の声に胸が詰まり、なかなか声が出ませんでした。

やっとの思いで「あっちゃん」と言うなり、「お母さん、どこにおるんや、お母さんが死ぬんなら俺も死ぬ、どこにおるんや」と泣きながら言われ、体の力が抜けて座り込んでしまいました。

前日、娘が物を取りに来て押入れの中の遺書を見つけ、親や兄弟に連絡していました。

息子のあと、母、兄、娘婿と変わり、声をかけてくれましたが、夢の中のようでした。

最後に、娘が冷静な声で「お母さん、あっちゃんに会いたいやろう。あっちゃんは手紙を見て、『俺が仕事をせんから、俺のせいや』と言って大変やったけれど、もう大丈夫だから居場所を教えて。迎えに行くから」と言われ戸惑いましたが、場所を言って車まで必死で帰りました。

車のシートを倒し、目をつむりました。

色々な事が頭の中を駆け巡り、考えはまとまらず、訳の分からない涙があふれました。

息子と娘婿が迎えに来て、手を握って声をかけてくれましたが、気が遠くなるような心持ちで、何を言ったのか覚えていません。

家に帰っても、誰も、責める言葉はなく、体の心配をするだけでした。

自分勝手で馬鹿な事をした、人間として、親として、恥ずかしい事をしたと思いました。

3日間、尿が出てなかった事で、病院へ運ばれ、即入院となりました。

先生から「あと1日遅かったら危なかった」と言われた時、複雑な思いでした。

見舞いに来てくれた人がみんな、何事もなかったように、まるで喫茶店でおしゃべりしているように接してくれた事を、うれしく思いました。

1年ほど前に、テレビで、高松あすなろの会が多重債務の相談を受付けている事を知って、電話番号を控えていた事を思い出し、少し体調が良くなった2月22日連絡し、25日に予約を取って相談に行きました。

自己破産についても説明を受け、もう一度世間に甘えて生きてみようと思い、破産を決意しました。

相談員さんに、今日から一切支払いをしないようにと言われました。

私は、日掛け業者からの借入れがあり、相談に行くまで見舞金や売掛金で払っていましたが、支払いを止めるとすぐ、病院へ取立てに来ました。

事情を説明して、支払えない事を伝えると、「払うまで帰らんで」とベッドに座り込み、しばらくして、部屋のドアを全開にし、体半分を廊下に出し「お前、人に金を借りておいて、払わんですむと思とんのか」と10分ほど大声で怒鳴っていました。

部屋の前の廊下には、入院患者が集まっていましたが、見栄やプライドを捨て、居直るしかありませんでした。

このままでは迷惑をかけると思い、「相談している所があるので連絡させてほしい」と許しを得て、高松あすなろの会の相談員さんに事情を説明しました。

相談員さんは、業者が登録している県庁に行政処分を求めて下さり、しばらくして業者から取立人の携帯に連絡がありました。

すると取立人は態度が一変し、付添いをしていた母に猫なで声で「大声出してびっくりしたやろ〜、ごめんな〜」などと言い、「早うようなりや、また貸してあげるからな」と軽く私の肩をたたいて去ってゆきました。

他の業者も病院へ来ましたが、相談員さんが対応してくれた事が心強く、気持ちの支えになり、どんな事があっても私がきちんと対応すれば援助してもらえるから、もう、ひとりで悩む事はないんだと思うと、生きる希望が湧いてきました。

破産申立書も、アドバイスを受けて作成し、4月25日に申立てできました。

その年に息子は結婚し、翌年の2月に娘、5月に息子の子供が生まれ、孫の顔を見る事もでき、生きていてよかったと思いました。

病院へ取立てに来られた時に見栄やプライドを捨てて居直った気持ちを、死を決意した時に持っていれば、家族に心配をかけず、私を知っている人に生き恥をさらす事にはならなかったのに、無知で変なプライドを持っていた私は、相談できる場所も探さず、弁護士費用がない事や自分の事だけ考え、「取立てで嫌な思いをしたくない、借金を知られたくない、恥ずかしい思いをしたくない」と全ての事から逃げたい一心で死を決意した事を、本当に卑怯で軽はずみで馬鹿な事をした、と反省しました。

「生きる」ってしんどいけど

その後、色々な事があり、生きてゆく事は大変でした。

49歳までの6年間、スナックへ勤めました。

店に来てくれていた人に連絡し、自分の給料は自分のお客さんの売上げで稼ぐ気持ちで働いていましたが、定年退職や転勤でお客さんが減り、私の年齢では勤められなくなって、その後は、昼夜パートで働きました。

私は、厚生年金を10年ほどかけていましたが、自営業をしてから、国民年金をかけていませんでした。

最初は、免除手続きをしましたが、毎年手続きをしなければいけない事を知らなかったので、そのままにしていました。

何年か過ぎて、国民年金をかけようと思い市役所へ行くと、「空白の何年間の何十万を納めるか、据置きにして満期までかければ、年金が受給される」と言われました、その時からかけたら、65歳までかけなければ満期にならず、その時まで働けるか、生きているだろうかなどと色々考えた結果、かけるのをやめました。

そのころは余り深く考えてなかったけれど、60歳になって、体力に衰えを感じ、何時まで働けるか、収入が無くなった時にどうすればいいのか考えています。

息子は、京都で家を持って生活し、香川県には帰って来ないし、嫁いで行った娘には迷惑をかけられない、病気になって寝込まなければいいが、もしもの時の葬式の事など、色々、先の事を考えると不安な事ばかりですが、私は今も高松あすなろの会の会員です。

「その時になれば、状況に応じて相談場所を選んで行こう。私には、あすなろの仲間がいるから、ひとりで悩む事はない」と思うと気持ちの支えになり、その後、自ら命を絶とうと考えた事はありません。

  • (了)

お知らせ

第149号 2009年7月 機関誌『あすなろ通信』および第150号 2009年9月 機関誌『あすなろ通信』にすでに掲載された体験談『生きていてよかった』前後編もあわせてお読み下さい。

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